天皇 |
年号 |
摘要 |
56代清和天皇 |
貞観元年
859年 |
現芳井町大字川相大社に出雲の地より阿須波~を勧請。第一鎮座地を足次山神社と呼んでいた。第66代一條天皇の時代、寛弘の終わり(1012年)頃まで約150年この地に鎮座した。(出雲大社方面よりの勧請説) |
60代醍醐天皇 |
延喜 7年
907年 |
延喜式神明帳が完成。社殿の大小、境内の広狭、氏子の多寡によらず、尊信の厚い神社を採択記帳したもの。延喜式神明帳の「足次郡の足次山に神社あり、延喜の御字以前に鎮座し給う式内の御神」という記事は、足次大明神、現倉掛の足次山神社を指している。 |
60代醍醐天皇 |
延長 3年
925年 |
「延長の風土記・備中風土記」によれば、備中国は11郡73郷に細別されており、足次郷はそのなかの一つ。 |
68代後一條天皇 |
長和 5年11月
1016年 |
大嘗会和歌集
「ことしより 数をかそえて君がため
八千代をつまむ くらかきの山」
詠み人は内蔵権頭備中国、主基善滋朝臣為政
主基とは=大嘗会の時、天皇にお供えする新穀を作る
稲田の管理を司る朝廷直属の長官。
歌の意味=今年から天皇のために千代、八千代まで
米作りに励み、美味しい米を山のように
倉垣(今の倉掛)の里に積み重ねて欲しいものだ。 |
100代後小松天皇 |
応永 元年
1394年〜1413年 |
天~山足次山~社から倉垣(倉掛)へ遷座 |
111代後西天皇 |
寛文6年
1666年11月 |
足次山~社再建 |
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足次山~社の各起源説が飛び交い、氏子の疑心暗鬼が広まる |
116代桃園天皇 |
寛延 4年
1751年3月 |
~道管領長上ト部朝臣兼雄より足次大明~の縁起書を受け取る。
後月郡氏子中へ五穀能生の守護神として、額字縁起書を受け、改めて後月郡氏子中へ五穀能生の守護~にして、式内の旧社なることを披露し、各村の庄屋・年寄が連判する。その内容は次のとおり。
「備中国後月郡足次郷井原村倉垣之里足次大明神者縁起之御宇以前鎮座し給う式内之御~たるによって此度御本所へ登速に額字縁起等を頂戴す。御神体尊号も口伝により詳に述べがたしといえども第一、五穀能生の守護神各々御信厚の所改めて後月一郡の氏子中に遂披露候者也
寛延四年末十月
祠官 大塚信吉 印
井原村外三十ヶ村庄屋年寄等六十八名 連印 」
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119代光格天皇 |
文化12年
1815年 |
裁許状に足次大明神と奉称す(後月郡誌) |
120代仁孝天皇 |
弘化 2年
1845年 |
足次山神社 本殿再建(10月) |
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明治元年正月
1872年 |
足次山神社と改稱 |
122代明治天皇 |
明治 5年11月
1877年 |
郷社に列せらる。 |
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明治 7年
1879年 |
釣殿、拝殿建築 |
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明治40年
1月27日
1907年 |
勅令第96号により~饌幣帛料を供進すべき神社に指定せれる。 |
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明治41年
1908年 |
前面地所、2反歩余りを買収して神苑となし、桜を植樹。忠魂碑を建立して毎年、郡中一円の招魂祭を執行す。 |
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明治41年
1908年 |
1月より~饌幣帛料供進指定神社となったことで、岡山県訓令第11号の祭々式により毎年4月4日に祭儀を行う。例祭は毎年10月26日午前、町内村社において各々神社祭式による例祭式を執行し、各神社神幸式を同時一列に行う。(後月郡誌) |
124代昭和天皇 |
昭和21年
1946年 |
神祗院より県社昇格内規に撤し由緒のうえ、県社に該当するものと認められる。 |
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昭和32年
1957年 |
社殿修理 |
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昭和45年
1970年 |
井原市戦没者芳名碑建立 |
125代平成天皇 |
平成12年
2000年 |
~社南沿い旧玉垣撤去、市道拡幅、新玉垣を新設 |
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平成12年
2000年 |
平成の大修復(本殿、拝殿) |