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平成15年興譲館女子陸上部 | 新谷、重友の前を走った幸坂選手 |
井原町婦人防火クラブ | 平成8年1月の出初めパレード |
倉掛自治連合会・善行表彰 | 平成15年5月28日・中国新聞報道 |
井原高校1年女子グループ | 昭和38年に鴨方へサイクリング |
井原中昭和33年度卒同窓会 | 平成24年6月11日 福山キャッスルホテル |
井原小昭和34年度卒同窓会 | 平成29年5月28日 |
井原高校昭和41年卒同窓会 | 平成29年9月20日 |
井原小昭和40年度卒同窓会 | 平成26年8月16日 花月別館 幼稚園時代 |
井原小昭和35年度卒同窓会 | 平成10年8月16日 平成21年5月5日 平成24年5月5日 平成27年5月5日 |
井原中1年クラス写真 | 昭和36年入学時 |
井原中2年6組クラス写真 | 昭和37年9月、井原・西江原統合時 |
井原大橋渡り初め | 昭和52年 |
第5部消防団 | 昭和47年〜同55年の集合写真など |
自治連合会研修旅行 | 平成22年11月14日 旧閑谷学校 |
自治連合会研修旅行 | 平成8年11月 宮島方面 |
御慰問の栞 | 昭和17年正月 |
七日市・倉掛付近の地図 | 安政4年(1857年)当時 |
倉掛少年団ソフト&雪遊び | 昭和61年〜62年 |
井笠鉄道お別れ列車 | 昭和46年3月廃止 |
なつかしの鉄道シリーズ | 井笠鉄道の懐かしい動画が見られます |
井原町新橋付近 | 年代不詳 |
区画整理前後の倉掛ほか | 昭和40年代 |
さくら祭仮装行列 | 昭和38年4月13日 |
第17回岡山国体 | 昭和37年 |
大正橋建設 | 昭和35年〜37年 |
懐かしの建物集 | 昭和10〜30年代など |
倉掛人の今昔文化 | 年代不明〜昭和 |
井原市施設巡り | 平成13年9月28日 |
笠商64期S42年3月卒同窓会 | H13年1月2日笠岡グランドホテル |
笠商64期S42年3月卒同窓会 | H30年11月11日笠岡グランドホテル |
笠商64期S42年3月卒同窓会![]() |
R6年11月3日笠岡グランドホテル |
笠商64期S42年3月卒同窓会![]() |
R6年11月3日笠岡商業校門 |
◎ | 載せても差し支えのない昔の写真がございましたらお貸し下さい。 |
井原町婦人防火クラブ 平成8年 |
井原大橋渡り初め 昭和52年 |
第5部消防団 昭和47年〜55年頃 |
自治連合会旅行 平成8年11月 |
平成8年秋、倉掛自治連合会研修旅行の集合写真です。宮島の鳥居をバックにした平凡な一枚ですが、ハッキリしなかったのが“鹿”。置物説と本物説に分かれていましたが、ちょうど鹿の傍に座っている田原さんに12年経ってお尋ねしたところ「はいはい、あのときの写真ですね。鹿は本物です。ちょうど良い具合に歩いて来たんですよ」。 |
御慰問の栞 昭和17年正月 |
「御慰問の栞」という井原国防婦人会及び井原婦人会の記念誌から抜粋した2枚。表紙をめくると「銃後のすがた」の文字が…。昭和17年正月ですから、大東亜戦争に突入してまだ間もない頃の貴重な写真です。 @は井原小学校で行われた國体井原町大会。スターターの号砲で、寝ている7人は一斉に駆けだしたのでしょうか。その後ろは次走者かも? 右の松を覚えている方は多いと思います。@の下側は何だか総決起大会のような雰囲気が感じられます。幟に「倉掛夏目」と書かれていますので倉夏合同チームだったのかもしれません。 Aは地区別集合写真の中の一枚。倉掛は郷社拝殿前で撮影されています。前列左から二人目は、12−2組森兼チヨノさん(102歳・明治40年5月21日生)のように見えるのですが、どうでしょうか。 (川相益一さん提供) |
少年団ソフトボール 昭和61年8月17日 |
少年団雪あそび 昭和62年2月1日 |
昭和62年2月、倉掛少年団が千屋スキー場へ雪あそびに行ったときの写真です。「事故を心配する声はありました。しかし、育成会も含めて銀世界を見たいという声が圧倒的に多かったですね」と、当時の育成会長だった川田昭典さん。費用の関係でスキーこそ体験しなかったものの、そりを使った遊びや雪合戦をヘトヘトになるまで楽しみました。上から5枚目に、世界の総合格闘技で活躍した藤井惠さん(当時6年生)の姿も見られます。 |
区画整理前後の倉掛ほか 昭和40年代 |
さくら祭 仮装行列 昭和38年4月13日 |
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市制10周年記念の井原さくら祭のパレードです。車には “ミスさくら・準ミスさくら”が乗っています |
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当時人気だったお笑いテレビ番組「番頭は んと丁稚どん」の仮装です。主役だった大村 崑さんに似ていますね。 |
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侍が人を背負っているのではありません。 後ろの人が侍の人形を身体の前に付けて いるのです。ナイスアイデア! |
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前の軽三輪トラックはミゼット。電柱はまだ木製です。 |
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つけている面からすると恐らく「キツネの嫁入り」でしょう。 |
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播州赤穂浪士に扮した面々。この衣装はどこで揃えたので しょうか。 |
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仮装行列に参加した倉掛と夏目の皆さん方です。 |
倉掛の郷社足次山神社まで下ってきた赤穂浪士の仮装一 行とミスさくらの関係者。 (クリックすると拡大します) |
第17回岡山国体 昭和37年 |
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大正橋を渡り倉掛に入ってきた国体旗を迎える人々。 |
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商店街には国体開催を祝う看板も吊されました。 |
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精研高校グラウンドで行われたホッケー競技の開会式。 |
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組体操を演じているのは中学生でしょうか。手前のボール止 めはコンパネの様にも見えます。 |
大正橋建設 昭和35年〜昭和37年 |
昭和35年7月8日、集中豪雨で井原町と西江原町を結ぶ大正橋が流失しました。当時の橋は木製でしたが、それなりの風情を漂わせていました。川の水量も多く、ちょうど橋のあたり(対岸の方)が適当な深さになっており、学校にプールが出来るまでの大正橋付近は、夏休みになると水泳を楽しむ子供たちであふれかえったものです。 |
撮影は昭和36年1月。小田川堤の冬景色に壊れた大正橋がもの悲しく写っています。 |
架け替え工事が始まりました。橋脚工事は急ピッチで進んでいます。 |
これは西江原町側から写したものです。家々は変わりましたが、山並みは昔のままです。小さな仮橋が人々の生活に随分役立ちました。 |
右の方に橋げたが並べられています。倉掛地内の墓地から撮影したようで、左手前には塔婆が見えます。 |
井原町側から橋げたをゆっくり移動させて、橋脚にのせる作業が行われています。 |
全長114m、幅6mのコンクリート製で立派な橋がほとんど出来上がったようです。歩道は後から付けられました。 |
昭和37年4月に執り行われた渡橋式です。 |
そしていよいよ待望の渡り初め。日の丸の小旗を手に新しい大正橋を渡る行列を河原から見ている人達もいます。 |
懐かしの建物集 昭和30年代 |
現在の広島銀行井原支店の場所に在った映画館「銀映」。テレビが普及するまでは身近な娯楽の場でした。 このほか井原町内には井原劇場や太陽館といった映画館がありました。 銀映は正面に表示されているとおり、主に日活映画が上映され、石原裕次郎や小林旭、浅丘ルリ子といった人気俳優の大きなポスターが掲示されていました。 |
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井原大橋の南にあった備中繊維の事務所と工場です。写真に写っているあたりに現在は学校給食センターが建っています。その向こう側が倉掛12−2組になります。 煙突から出ている黒い煙も、昭和30年代の頃は繁栄のシンボルでした。 |
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白い建物は井原小学校の講堂です。現在は取り壊されて駐車場になっています。どちらも雰囲気のある大きな木造建築として知られていましたが、その姿も、もう写真でしか見ることはできません。 |
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昭和37年に完成した現在の井原中学校。夏休みに生徒らが机や椅子を運び、2学期から井原中と西江原中は実質的に統合しました。 ちょうど団塊世代が在学していたため、37学級・生徒数1738人のマンモス校になりました。 |
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かつて七日市町に在った井原警察署です。昭和40年代の区画整理で現在の西江原町に移転しました。写真左端の道は当時のまま残り、少し北へ行くと倉掛地内の洋菓子店・マーガレットなどがあります。 |
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井原町下町にあった井原農協。 |
その後に出来た井原市農協。井笠鉄道のレールがまだ残っています。 |
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中国電力井原営業所。手前は電柱置き場です。その後に建て替えられましたが、出先機関の統廃合で井原営業所は無くなり、土地建物は井原市が買い取りました。現在は井原市文化財センター「古代まほろば館」になっています。 |
倉掛人の今昔文化 |
昭和30年代の倉掛婦人会旅行 |
昭和54年2月25日京都太秦映画村研修旅行 |
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井原町警防團第5部の精鋭。撮影年月日は不明です。 |
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